明日のほうが きっとしあわせ

昨日より今日、今日より明日。子育て、進学、カトリック生活、仕事、趣味……。

卒業させる

何かの団体というのは、いつもどこかに問題がある。

先日、某テレビ番組に、若い神父さまが登場した。この神父さま、神父さまになるまで、いや、なってからもなかなかの(笑)人物で、カトリックの信者のなかでは、そこそこ(笑)名前が売れている。

信者であっても教会には入れない場所も多いので、あら、こんなところまで映しますか!という場面もあった。

本来、ランチを取材する番組だから(はい、わかりましたね~)

 

さて、神父さまになるには、ザックリ分けるとふたつのルートがある。

ひとつは神学院で学ぶ

ひとつは修道会に入る

 

この神父さまは、神学院。

修道会から神父になるには10年以上かかるケースもめずらしくなくて、創立メンバーに聖ザビエルも列ねるイエズス会は、最低でも13年ときくが、神学院の場合、だいたい6年らしい。

しかし、この若き神父は、12年かかったようだ。

その最大の原因は、女性問題だったと、本人も告白している。

この原因は、相手のことを考えろ!から始まり、信者でない方々も巻き込んで、ちょっとした騒ぎになった。(ネットは、いくら削除しても傷跡が残り、完全には消えない。)

こんな神父は認めない!と嫌悪感むき出しで叩かれた。

それでも

一度は、神学から離れ、神父になることを諦めていた彼を、結局、神は見放すことはなかったのだが。(だから神父になったんだけど)

 

なにしろ女性問題が公になった時、彼はまさに神父に指がかかった状態だった。

けれども叙階(神父になる)を見送られ、教区預かりの身となる。

「本当に神に呼ばれているのか見極める」と宣告されたのだ。

神父になるには、勉強や本人の希望だけでは足りず、「神に呼ばれたか」が重要なポイントで、芸術分野を考えるとわかりやすいかもしれない。

本人が望み、勉強も出来て、性格も悪くない

でも、ダメな場合がある。

絵がうまいだけではダメ、綺麗な声でもダメ、テクニックがあるのにダメなのと同じように、目に見えない「何か肝心なもの」が必要なのだ。

 

卒業はできた。そこで教区預かりになったものの、神父になる予定はたたない。

なんで?と聞かれるのもつらくて実家に逃げ帰ったという。

しかし、、、本人も知らないところで、東京の司祭から実家の方の教区に、「よろしく頼む」と連絡が入り、実に6年、多くの人に見守られて、ついに彼は神父に叙階されたのだった。

 

多くの人々、神父さま達、、、なにより神の力で、彼は神父になったわけだが

神学院を卒業させた

私はこれがひとつの鍵だったと思う