卒業させる2
さて、前回、卒業させる、と書いた
この「卒業させる」をみたことがある
ある中学で、受験を控えた三年生が事件を起こした。
いわば被害者の立場だった生徒と家族からの配慮から、表沙汰にならず、水面下で指導が続いた。
本人の反省、親の希望、被害者の困惑、学校側の配慮、、、
すべての足並みが揃わない数ヶ月。
悲劇だったのは、学校側としては高校に所謂推薦は出来ないが卒業はさせたい としたことを、本人とその親が理解できなかったことだ。
本人は第一、第二志望高校入試によい結果は出ず、滑り止めと考えていた高校に進学した。
被害者の立場にあった生徒は第一志望に合格した。
それが事件からの結果とは言わないけれど
とにかく卒業して、卒業アルバムには、笑顔の両者が写る。
中学側は、「卒業させた」ことで、事件をなかったことにしたのではなく
どちらにも、まだまだ長い人生があること、特に事件を起こした生徒は、いつか家族や仲間とアルバムを開く時、「成長して、過去をきちんと認めてしっかりと生きていること」を望んでいる。
神学院が、問題を起こした神学生を「卒業させた」のは、もし、神父になれなくてもその6年間がムダではないことを示している。
ムダではなかった6年間は、その後の彼を支え、神学院も関わった神父さまも、そして神が彼の成長を見守ったのだ。
随分前に、よく知っている若者が修道院の門を叩き、神父への道を歩んでいる。
突然、「彼が修道院に」という報告があった時、驚きとともに「やはり」という感動もあったのだが
修道院から神父を目指す場合、最初の一年か二年は、修道院の外とは遮断される。
家族や友人と完全に離れて、自分は本当にこの道なのか、見つめるからだ。
先輩神父さまがおっしゃった。
「もし、彼が修道院を出て戻ってくることがあったら、普通に普通に何事もなかったように迎えてあげてくださいね」
いつも茶目っ気たっぷりの神父さまの話ぶりは、とても静かで愛にあふれていた。
人は、道に迷う。
だけど、なにかを卒業する度に、ひとつ区切りを迎える。
卒業させる
それは、教える側のおごりではなく、沢山の愛のなせるものだ。
それが、若き神父さまにも、問題を起こした生徒にも、伝わっていると
信じたい