命のパン
カトリック教会のミサで、信者はパンをいただく。
パンと言っても、小さなお煎餅のようなものだが。
ミサに行き、祈り、歌い、神父さまのお話を聞く、、、でも、最大の喜びは、パンをいただくことかもしれない。
パンは、キリストの体。
パンを自分の体に入れるということは、キリストが体に入る、キリストと一体になる、そんな意味がある。
これは、信者であること(洗礼を受けている)、ある程度の年齢になっていること(教会で教育を受けて神父さまから認められた)をクリアしていなければならない。
信者ではない人には、理解するのは難しいかもしれないけど、パンは重要なもので、鍵をかけて守られているのだ。
今日はいいよ、と神父さまにパンをいただいたことがある
とか
黙って並べばわからないでしょ
とか
その場で口にいれないで、あとで子どもにあげる
とか
耳を疑う話を聞くこともあるけど
まず、それはあり得ない。
教会で、日頃見かけない人物がパンを受けようとすれば、信者なのか確認されるし、そもそも行動がおかしいから怪しまれる。その場で口に入れないと係の者が追いかけてくる。
神父さまが、まあいいよ、と言ったとしたら、逆に神父さまは本物なのか?って話だ。
近年、長崎の教会群が世界遺産に登録され、いよいよこの秋には、フランシスコ教皇が日本にやってくる。
なにをきっかけに信仰を持つかわからないし、教会の門はいつでも、誰にでも開かれているはず。
でも、教会は祈り。教会は命のパン。
そこをわかってほしいな、と思う。