パパさまの旅とは
一年も前から、ローマ教皇が日本にいらっしゃることは、わかっていた。
焼場に立つ少年の写真は各カトリック教会で配られ、我が家の冷蔵庫(( ̄▽ ̄;)にも、マグネットで( ̄▽ ̄;)留めてある。
ローマ教皇は、82歳。
日本滞在の日数は少なく、それでも、東京、長崎、広島、東京と、ある日は1日に何度も飛行機に乗り、疲れた表情や通訳の神父さまに支えられる姿もあった。
それでも、微笑み、子どもを抱き上げ、愛を伝えた。
そして、二度と原爆の悲しみがないように強く訴えた。
それでも、教皇ミサに行く行かない、の騒ぎは良くも悪くも、かなりの騒ぎを巻き起こしていた。
私は迷った末にコメントをつけなかったが、ひとつは、カトリック系の小学校で、未信者がミサに当選、信者が落選した時に「神様は私がすき、あなたがキライ」と未信者の子から信者の子が言われて、精神的に不安定になり登校拒否の傾向が出たこと。
またひとつは、当選した人が「行けるかわからないけど当選した」「落選した人こそお恵みがある」と発信した後、「もっと落選した人の気持ちを考えて」と名指しはせずともどの発信に反応したかわかる発信。その後、なぜか落選した人の、、、の方が叩かれて、挙げ句に「落ちたヒガミ」とまで、、、。これと似たようなものとしては、東京ミサでのマナーの悪い参加者について嘆きの発信がそこここに見られた。
元々のそれぞれの言葉や発信について、しばらくすると
「きっと神様から、、、」とか「いつかいい思い出に、、、」とか「いつか信仰が、、、」とか
まとめにはいるというか、とても善人なコメントがつく。
私は、これには賛同しない。
誰かを傷つけたり、悲しませたり、またマナーが悪いことは、神様や信仰では解決できない。
この世に、現代に、生きる以上、家庭や学校で、教育すべき心と行動の問題だと思うから。
車椅子を誘導する私を押し退け、車椅子の行く手を塞ぎ、横切った子どもや、これが自分の子どもだったら、私は間違いなく張り倒した。
いずれその子も信仰に目覚める日がくるでしょう、、、
??ナニソレ
そういう問題じゃないでしょ、人に迷惑かけておいて
車椅子が通るので道をあけて!と言っているのに、嫌な顔をする人
列に横から入りたいわけでも、ズルしたいわけじゃない。
人の気持ちを100%わかることはない。別々の人間で別々の心なのだから。
でも、わかりあおうとすることで、人は近くなる。
ケンカをすることはわかってほしいという愛が根底にある。
戦争に愛はない。
愛を持って日本にはるばるやってきたパパさまの旅は、命がけの愛の旅。
平和と命は、武器では守られない。
私達は何をすべき?
信仰を語る前に、愛ある行動を。
どんなに小さな行動にも、大きな愛を込められる。