いじめ体質
仕事をして○○年になるけど
どの職場にも、嫌なヤツはいた
今回は直接被害じゃないけど
あー、イマドキ、まだいるんだ、そういうヤツ
フレックスタイムの導入や、時短、産休(信じられないかもしれないけど、昔は寿退社、おめでた退社が普通でした)、、、そして、この度のコロナで、チーム全員が揃うことが少なくなった
そうなると、重要なのは、ホウレンソウ
誰かがいなかった時の情報は、速やかに、確実に、正しく伝える必要がある
なのに、、、なのに、だ
こそこそと、ある人にだけ、わざと伝えない
これは、聞いてないわけだから、ある人が失敗しても仕方ないし、伝え「忘れた」方にも、責任はある
今回、最悪だったのは
わざと伝えないよ、という匂わせをしたことだ
あきらかに何か伝達があるのに
「いいわよ、あの人には、、、」と、こそこそ、多少聞こえるようにしたわけだから
もう、イジメである
くだらないと思っても、こういった小さなイジメは、キツイ
大人になってやりすごせ、と言われても
相手も大人なのに子供じみた嫌がらせをするから、腹がたつのである
しかし、今回は、やりすぎた
今まで、ちまちまと嫌がらせをしては、あの人が困るのを楽しんできた「いじめ体質」の人々
窮鼠猫をかむ
とうとう、あの人が、上司に訴えでたわけだ
そこから、「いじめ体質」団体、慌てて、上司に注意される前に、言い訳という嘘と保身に走った
まあ、まわりはドン引きだけど
あの人を異動させたところで、解決にはならない。
だって、「いじめ体質」団体が残れば、標的がかわるだけ。
いじめ体質撲滅には、上司の手腕が問われる。
しかし、いじめ体質の方々へ言いたい
顔、恐いんだよ!
乗り物 その3
娘が中学生になって、自由研究なるものを始めた時、それに絡めてどこかに行こうと思った。
一年目は、横浜。日帰りだったけど。普通に電車の旅。
二年目は、どうやら、遠出して研究材料集めると評価が高そうに思って、邪な気持ちで、長崎、五島列島、香港から、どこがいい?と聞いたら、香港,と言われた。でも、原爆についても学んでいる時期だったので、長崎に決めた。五島列島も魅力的だが、車の運転が出来ないとうまくまわれない。
そこで、初めて娘は飛行機に乗ることになったわけだ。
長崎では、路面電車の1日乗車券で、かなりの教会や記念館をまわった。朝5時のミサから夜は稲佐山の夜景まで2泊で長崎市内を動きまわり、娘は、路面電車を、かなり気にいった様子だった。
長崎には、三年後に、別の用事ででかけることになる。
そして、中学を卒業した春には、飛行機で島根へ行った。
さて、私の一番の乗り物は、飛行機。
娘は、結局、乗り物は、好きじゃないらしい。
でも、、、
もしかしたら
たくさん飛行機に乗りたいな、と思ってきた私の「たくさん」がどの程度かは置いといて
娘の進学先によっては、私もまさに便乗っていうか
飛行機にたくさん乗れるかもしれないな、と思っているこの頃である。
願いというのは、願っていたら、、、いつか叶うものなのかも知れない。
それも、自分の欲求だけじゃなく、誰かの為に願うオマケみたいに。
乗り物 その2
車窓や、飛行機の小さな窓から見える景色は、朝も夜も、晴れも雨も、美しい。
日常から離れるという特別な景色だ。
私が初めて新幹線に乗ったのも、飛行機に乗ったのも、自分で手配したものではなかった。
世の中便利になって、自宅のパソコンや携帯から、パックツアーや乗り物の予約がとれる。
あ、年齢の匂わせ?(笑)
娘に体験させたいとか、みせてやりたいとか、食べさせたいとか、、、
娘が小学生になってから、二年か三年に一度、旅行に連れていった。私にはそんな思い出がないコンプレックス。そして、まわりのお友達が夏休みに豪華な旅行に行くのを聞いて、私の二の舞にさせたくなかったこと。
あとは、私のストレス解消。
初めての新幹線は、名古屋。私の元上司に会いに行きたかったし、世界一のプラネタリウムがあることが名目で。
娘は東海道新幹線の中で、嬉しそうに駅弁を食べた。初めてのホテルはヒルトン。チェックインの際、娘は小さなプレゼントを貰った。部屋について開けてみると、子ども用の小さなスリッパ。そして圧縮してある入浴スポンジ。風呂に湯をはりながら、スポンジを投げ入れたあと、お湯がたまったか見に行った娘が「おかーさん!」と叫ぶので何事かと覗くと、四角い圧縮スポンジが「ぞうさん」になって浮いていた。
娘、テンションあげあげである。
話がそれた。
ホテル、元上司がご馳走してくれた鰻、プラネタリウム、名古屋城。
初めて新幹線旅は、大成功だった。
その後、鎌倉への旅で、グリーン車に乗せた。
半年後に、学校の社会科見学で鎌倉に行くのに~と、娘はぶつぶつ言っていたが、鎌倉プリンスのテラスから夕焼けの海をみて、とんびを眺めて、神社仏閣をめぐり、、、
帰り道に、「実はあんまり気乗りしてなかったんだけど、すごく楽しかった。」と娘はつぶやいた。
この旅で、娘は美味しいイカにも出会った(笑)
さて、次は、飛行機だ。
つづく
乗り物 その1
娘、乗り物酔いをする。
特に車。バスも。
船に乗ったことはないけど、船もだめだろうなあ。
私も、小さい頃は、だめだったし、今も自信はない。
そして、運転免許もない。
考えてみると、私、子供の頃、実家では、旅行や遠出は、ほとんどなくて、遊園地の楽しみも知らなかったし、当然、地理感覚も悪かった。乗り物が楽しいとか乗ってみたい、どこかにいきたい、という発想はなかった。
就職して、行動範囲は広がったけど、新幹線、まさしてや飛行機のチケットの取り方すら、わからない状態が続いたのだった。恥ずかしくて、黙ってたけど。
いろいろあって、独り暮らしが始まった頃。つまり、親やパートナーの締め付けから解放された頃。
ようやく、出張で、ひとりで新幹線に乗った。
もう30過ぎてたのに、なんだか、すごく大人になった気がして、ある年末に、来年は、たくさん新幹線に乗りたい!と思った。
翌年から、出張にでると、帰りに京都にでかけるようになった。
たまたま、乗ったタクシーの運転手のおじちゃんがとても親切ですっかり仲良くなり、何度かあらかじめ予約を入れて、かなりの名所をまわった。いろいろなお店も教えてもらった。(○○年後、娘を連れて京都に行ったが、無駄なく名所をまわるので、修学旅行より濃い旅だと娘には言われた。)
学生時代の友人がいる九州には、飛行機でも行った。
飛行機の離陸する際の、ふわっとした感覚が気持ち悪いという人もいるが、私は、実は乗り物で一番好きなのが飛行機である。
人生で初めて乗った飛行機は、南回りのアテネ行きだったのだが、その時の感動(笑)が甦った。
ああ、来年は、飛行機にいっぱい乗りたいな!と思ったけど、数年後、韓国に仕事とプライベートで行っただけだった。
つづく
お葬式
年が明けてから、お葬式がふたつ。
ひとつ目は、高校の後輩で、友人で、筝の先輩で、書道の妹弟子で、、、とにかく、私の数少ない長い付き合いのひとりだった。
なんでも良くできたし、昔から大人で、勝ち気(笑)で、とにかく頑張りやさんだった。
結婚して、すぐに年子で男の子を、「大きく産みたい」と言った通り、一人目は4000gあったし、二人目も3000g以上あった。
どちらを産んだ時も病院から電話をくれて、幸せそうだった。
二人目を産んだ時の電話
「生まれました。男の子。脳が小さいって、言われたけど。でも、私の子だから、いいの」
おめでとう、と言いながら、いったいどういう意味なの?とは聞けなかった。
重度の障害を持って次男くんは誕生した。
そこから、彼女の生活は、益々忙しくなっていったのだと思う。
長男くんとともに、次男くんを支える日々。
長男くんも、よく家族に尽くしたと思う。
年に一度、筝の会で会うくらいになってしまったけど、ある時は、師匠の筝、長男くんの尺八、私の娘の筝の演奏に、こんな日がくるなんて、と感動したものだった。
長男くんが大学院を修了し、就職して、地方配属になった時、私は勝手ながら、良かった、、、と思った。
長男くんに、負担がかかりすぎる、と思っていたから。
ご主人や義父母も、ここで、さすがに、もっと彼女を支えることになるのでは?と。
そして、、、一年ほどが過ぎて、、、。
長男くんからの連絡。
母が亡くなりました。くも膜下でした。
絶句した。
次男くんに玄関で、いってくるね、と声をかけて、パートに行く途中の道で倒れ、そのまま天国に行ってしまった。
コロナの中ではあったけど、お葬式には筝の仲間が集まった。
今、長男くんは、次男くんの今とこれから、遺品の整理に、週末毎に実家に戻って、生前の彼女のように大忙しだ。
時々、繋がったFacebookで、愚痴やらなんやらを吐き出しているので、私もでしゃばってコメントつけたりしている。ご主人、動かな過ぎだよ!
コロナの中、お葬式に参列出来たのは幸いだったが、今も、まだ彼女が亡くなった実感はないし、忙しくてイライラしてる彼女も思い出すけど
でも、私の子だから
って、言いきった時の話を、いつか長男くんにしたいと思っている。
大変だろうけど
君は大丈夫
だって彼女の自慢の子だから
娘との距離
少し、いや、かなり甘やかした娘の受験。
医学部を受けたいと言うのは、小さな時からの「人骨オタク」からして、予想していたし、そうあってほしいと思っていた。
しかし、普通のサラリーマンどころか、母子家庭の生活保護レベルの我が家からすると、お高い私立のどこでもよいわけではなく、手厚い奨学金があるとか、国立とか、わずかな隙を狙うような受験になる。
そんな負い目もあったし、とにかく気持ちよく受験に向かってほしかったわけだ。
途中から、いつ怒鳴り付けるか、迷った。
どうみても、緩んでいて、どうにかなる、という態度。
あっちは、ここがイヤで、こっちはここが気に入らない、と、何がなんでも合格したい、という強さがなかった。そして、お金があれば、なんとかなるのに、という言い訳がみえみえだった。
結局、滑りまくって、浪人である。
次にやってくるのは、予備校。
最後の国立の結果がでる前に、現役塾の校長から連絡がきて、予備校も、そのままお世話になることになったが、これまた、なかなかのお値段。
必死でかき集めて、ようやく減った借金が、また膨らんだ。
娘に落とした雷の話は後日書くけれど( ´-ω-)
今、思うのは
コロナでピンチでありチャンスだった受験。
これで、娘が大学に滑り込んだら、娘は世の中や大学受験をなめたイヤな人間になっただろう。
第一、勉強ついていけたのか?
人生勉強というには、お金も時間も随分嵩むけど、仕方ない!(と、言い聞かせてる、自分に)
高校卒業で終わったはずのお弁当を作り、洗濯して、掃除して、、、、
コロナで在宅勤務して、、、
もし、大学に滑り込んでたら
寮だろうが、一人暮らしだろうが、娘、生活できたんだろうか
地方だったら、毎週、様子を見に行くわけにもいかなかったわけだし
ましてや、コロナはおさまりそうもない
準備が足りなかったんだ(と、言い聞かせてる、自分に)
娘は、もう大人だ。
だけど、親元を離れて暮らすほど、大人になってなかったのかもしれない。
この一年で、娘との距離を、少しずつ広げて
私は私で、覚悟をしなくてはならないだな、きっと。
朝ドラ
娘が出かけた後、洗濯物を干して、
珈琲を飲んで、ふと見ると、ちょうど朝ドラの時間である。
頑張ってる子役とか、純愛とか、苦労話とか、、、
ちょっと、重い(笑)
私には
でも、いよいよ、今回の朝ドラも終わりに近づいてきていて
なんとなく、見てる
ざっくり言えば、長年尽くしてきた亭主(劇団の座長)が遊び人で、度々あった浮気の中でとうとう子どもを作ってしまった。離婚。
なんとか役者として劇団に残ろうとしたが、舞台上で芝居が出来なくなり、姿を消す。
って、ところ。
まあ、どん底。
この離婚の際
「なんでうちやあれへんの」と、主人公は泣くのだけど
これには、参った
生母は早くに亡くなり、父親に売とぱされて、親の愛を信じられない。奉公先や撮影所の仲間に支えられて、同じく親の愛に飢えていた座長と結婚し、信じて愛して尽くしたのに、あっさりと愛人の元へ去ってしまう。愛人も「許してほしい。この子は愛されて生まれてほしい」ともっともらしくも残酷な台詞だ。
なんでうちやあれへんの
は、自分が子どもを産めなかったことではないだろう。
彼女は、芝居も浮気も寂しさも、すべてひっくるめて座長である夫を愛していたし、大切にしていた。
そして、自分も大切にされている、と満たされていたはずなのに、夫が守ろうとしたのは、自分ではなかった、ということだ。
一番大切な誰か。一番はひとつとは限らない。
なのに、自分は、そのひとつになれない。
ほんの少し、幸せになりたいだけなのに。
これは、打ちのめされる。
なんでうちやあれへんの
わかる。もう、説明いらない。完璧な台詞だよ。
しかし、、、ドラマはよい。
憎い継母が、実は、ずっと、遠くから見守っていたことがわかり
主人公は、また役者として動きだした。
誰かに大切に思われること
それは、生きるために必要なこと
朝ドラ、最終回は、どうか、私を納得させてくれ
(少し座長にバチがあててくれ)