娘の洗礼
信者の家の子どもは、幼児洗礼が主で、赤ちゃんだった自分の洗礼を覚えていないことが多い。
娘が生まれた時、私は自分の洗礼から、まだそれほど時間が経っていなかった。
信者として未熟だったかもしれないが、洗礼の感動が記憶に新しく、娘にも、洗礼を選び、感動してほしいと思った。
幼稚園を考える頃、三種の神器と言われる、送迎バス、給食、延長保育の揃った幼稚園にも見学に連れて行ったが、娘は全く興味を示さず、唯一気に入ったのが、教会に附属しているカトリック系幼稚園だった。(送迎バスも延長保育もなく、基本的にお弁当だったから笑ってしまうが)
しかし、もう、この時点で、娘には「種が蒔かれた」のかもしれない。
めでたくカトリック系の幼稚園に通うようになったある日。
娘とふたり、駅のベンチに座っていた。
曇り空の隙間から、光が射して、私達を照らしていた。
「ねぇ、おかあさん、いま、マリアさまはわたしのそばにいるかしら」
きた! と思った。
幼児洗礼の年齢ではあるけれど、自分で洗礼を受けるという
決定的な一歩を、娘は踏み出したのだった。