作家というもの
2020年、遠藤周作の未発表の作品が見つかった
しかも、清書までされたもので、なんと草稿2枚まであるのだという
先日、夜遅くに、その作品「影に対して」をメインに、遠藤周作についての番組があった
遠藤周作の弟子や、遠藤周作記念館の学芸員は、草稿にある、アスハルト(アスファルト)と砂浜の、ふたつの単語について熱く語る
影に対しては、自叙伝的な作品であるとのことだから、ファンは勿論、弟子や学芸員のテンションが爆発的に高いのは仕方ない
これを見て、益々、その原稿をこの目でみたい、と思った
遠藤周作は、近年、沈黙 という映画で、また注目された
私は、遠藤周作のファンではなかったので(ないので)、彼の人となり、というか、生い立ちや、ちょっと面白おかしいエッセイのような作品にも、興味はなかった
ただ、海と毒薬 などいくつか、歴史小説なども読んだし、素晴らしい作品だったと思う
娘の高校の教科書にも作品が載っていた為、娘とその作品について語り合ったりもした
さて、話を戻す
自分の生い立ちを元に、また、そのままに作品として書く作家は少なからずいる
代表的なものは、やはり太宰の 人間失格 だろうか
そこに好き嫌いは出るだろう
その好き嫌いが影響して、遠藤は、代表作のひとつ、沈黙の結末というか題材そのものというか、ノーベル文学賞をとり損ねたと言われる
遠藤周作は、母の影響でカトリック信者になったわけだが、ある意味、父への敵意も、後押ししたように、私は思う
自叙伝的、影に対して は、まるでアスハルトを歩く父と、砂浜を行く母の姿を通して、生活と人生を、描いている、と、テレビ番組では、次々と興奮するように語られた
しかも、この作品が書かれたのが、沈黙の執筆時期と重なるとか、、、
しかし、だ
作家というものは、人生とは何か、を常に書こうとしている悩ましいものであると思う
漱石も、鴎外も、太宰も、、、、
沈黙も、海と毒薬も、影に対しても
ヨブ記を書きたいと望みつつ、ついには天に召され、その願いは叶えられなかった遠藤周作
葬儀は四ッ谷の聖イグナチオ教会で執り行われ、一度は別地に葬られたが、その後、聖イグナチオ教会の地下に移された
人生を、人はどう生きていくべきなのか
あれほど望んだヨブ記で、何を書いたのか、読みたかったとつくづく思う
聖書には
生まれる時、死ぬ時は神が決める
その間だけが自分のものである
とある
アスハルトも、砂浜も、自分が選んだ人生で、どちらも間違いではない
作家は、人に、どう生きるかを問う
まるで、自分自身に
まるで、神に
求めるように、問うように、、、